【 聖徳太子はホントに偉い人なの (1)】 [ブラック?ホワイト?]
『ブラック?ホワイト?』
【聖徳太子はホントに偉い人なの 】
今でこそ日銀券の顔から消えたが、百円札も、
千円札も、一万円札も最初に描かれたのは、
こぞって聖徳太子だった。
そんなにエライ人だったのだろうか。それなら
カレの子孫は山背大兄王をはじめ、根こそぎに
殺された事実は何を物語るのか。
単なる蘇我氏の血を引く皇子の一人に過ぎず、
御用済みとなって処置されたのが本当のところ
じゃなかったのか。
ホントにエライ人なのか、それが戦後の渡来人の
ボクには理解が出来ないのである。
聖徳太子が理想とし、天智天皇が下地を作り、
大宝年間に藤原不比等によって完成する律令制
だが、天皇を中心とする一部の貴族の下に、
農地と農民のすべてを国有化すると言うのは、
悪名高きロシアのツァーリ時代の農奴と、いったい
どこに違いがあるんだろう。
農奴制を始めたヤツがエライってなぁ、オカシクはないか。
律令制という言葉をボク流に分析したら、規律と
命令になる。お~、嫌だ嫌だ。そんな世界なんかに
住みたくはない。
苛斂誅求の世界から、多くの逃亡者が東国に逃れた。
そこで新興の開拓民の手伝いをやり、おそらくは
最初は水争いから始まった抗争から、鉄製の
本格的な武器が生まれ、東国に武士団が登場する。
これを要するに、古代日本に「ブラック」を支配する
「ホワイト」が制度化されたことになる。
強烈な人種差別であり、この時の規律と命令の
社会が、そのまんま徳川の官僚を作り、国の
存亡を賭けた大本営参謀群を作り、いま、
どうしようもない官僚王国を作るに至っている。
「和をもって尊しとなす」
そうかなぁ~と思ってしまう。あれは天皇及び
限られた貴族にとっては、都合の良い言葉であろう。
「和」が産んだものこそが、今日の「談合」じゃないのか。
「和」なんかを尊重していた日には、社会の進歩は
ありえない。人間社会の進歩は、常に一部の
先駆者が、「和を乱す者」と冷たい視線を受けながら、
孤独な労苦の末に実現させてきたものでは
なかったのか。為政者は特に社会の進歩を嫌う。
それは現代の会社にあっても、村落にあってもそうである。
≫【 聖徳太子はホントに偉い人なの (2)】へ
コメント 0